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創薬研究セッションのハイライト – 第7回 AWS ライフサイエンス シンポジウム


創薬プロセスの抜本的な見直しに向けて
私たちは今、科学、データ、テクノロジーが融合して全く新しい治療法の地平を切り開く、バイオメディカルイノベーションの黄金期にいます。しかし、創薬プロセスは依然として時間がかかり、高コストで、成功の見通しも不確実なままです。医薬品候補の約90%が臨床試験で失敗し、1つの治療薬を市場に送り出すまでに10年以上を要することもあります。巨額の投資が行われているにもかかわらず、多くの疾患に対して効果的な治療法が見つかっていないのが現状です。
この課題の根本にあるのは、生物学そのものが持つ驚くべき複雑さです。私たちの体内には数千種類の細胞、2万を超える遺伝子が存在し、それらの間で起こる分子レベルの相互作用は個人によって千差万別です。研究者たちは、10⁶⁰もの低分子と、20³²にも及ぶ治療用抗体の候補という、ほぼ無限とも言える可能性の中から最適な選択を迫られています。さらに、研究に不可欠なデータは、学術誌やデータベース、各社の独自システムに散在し、体系化されていない状態で存在しています。従来のR&Dツールは確かに優れたものですが、このような規模と複雑さ、そしてスピードへの要求に十分に応えられる設計にはなっていません。
経済面での課題も深刻です。製薬会社は今後数年間で、特許切れ(LOE)により推定2,500億ドルもの収益が失われるリスクに直面しています。イノベーションギャップは広がる一方であり、外部からの資産取得は一時的な解決策にはなりますが、長期的な成功のカギは社内での改革にあります。
このような状況を打開するため、製薬業界にはAIを中心に据えた新しいR&D戦略が必要です。これは単に試行回数を増やすだけでなく、個々の取り組みをより迅速に、より正確に、そしてより成功の可能性が高いものにすることを目指しています。
この変革は、段階的な改善ではなく、パラダイムシフトと呼べるものです。そして、シンポジウムの講演者たちが示したように、この変革はすでに現実のものとなっているのです。
Lab in a Loop:GenentechのAI主導型研究ビジョン
Genentechの機械学習による創薬部門バイスプレジデント、Rich Bonneau氏が同社がAIを研究の中核に据えて、初期段階の研究プロセスを刷新している取り組みについて紹介しました。
その中心となるのが「lab in a loop」という概念です。これは、実験データと臨床データで学習したAIモデルが予測を行い、その結果に基づいて実験室での研究が進められるという、緊密に統合された反復サイクルを指します。新たな実験結果はモデルにフィードバックされ、予測の精度が継続的に向上していきます。このサイクルにより、研究者たちはより正確な予測のもと、広大な化学空間を効率的に探索し、複数の治療特性を同時に最適化することが可能になり、発見のプロセスが劇的に加速されています。
このような革新を支えているのは、Genentechが数十年にわたる研究・臨床活動を通じて構築してきた、質の高い大規模データセットです。これらのデータは、かつては対応が困難と考えられていた課題に取り組むAIモデルの重要な基盤となっています。さらに同社は、生成AIを研究ワークフローに直接組み込む取り組みも進めています。
AWSとの協力により開発されたgRED Research Agentは、その代表例です。Amazon Bedrock Agents上で動作するAnthropic社のClaude Sonnet 3.5を搭載したこの知的アシスタントは、科学文献や構造化データベースの調査など、時間のかかる作業を自動化することで、科学者たちがより創造的で影響力の高い研究に注力できる環境を実現しています。
その効果は目覚ましく、これまで数週間を要していたプロセスが数分で完了できるようになりました。例えば、バイオマーカーの検証作業だけでも、43,000時間以上の工数削減が見込まれています。
しかし、これは単なる作業の高速化にとどまりません。科学研究そのものを、かつてない規模で展開できる新たな段階へと押し上げているのです。
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BioFMを活用した分子設計:AbbVieの包括的アプローチ
次に議論は、創薬におけるもう一つの重要課題である低分子設計に移りました。AbbVieのR&Dデータ分析部門バイスプレジデントのJennifer Van Camp氏と、グローバルリード兼主任機械学習サイエンティストのAbhishek Pandey氏が、生物学的基盤モデル(BioFMs)を活用した革新的なアプローチについて発表しました。彼らは生物学を優先した大胆な手法で、イノベーションを推進しています。
AbbVieは画期的な成果として、ヒトゲノム全体の薬剤化可能性スコアの算出に成功しました。これは、どのタンパク質が低分子医薬品の標的として適しているかを予測するものです。この網羅的な評価は、従来のように化合物(リガンド)の特性のみに注目するアプローチからの大きな転換点となりました。AbbVieは、EvolutionaryScaleが開発したESM-2などのbioFMモデルを活用し、タンパク質とリガンドの特性、およびそれらの相互作用パターンを包括的に分析する手法を採用しています。
この生物学的な複雑さを予測可能な形に変換するため、AbbVieはESMの埋め込み技術をリガンドデータと組み合わせ、AffinityNetを開発しました。このシステムは、タンパク質、リガンド、それらの相互作用の特性を階層的に分析するグラフアテンションネットワークを用いた深層学習モデルで、結合親和性を極めて高い精度で予測することができます。これにより、生物学的な知見に基づいた、データ駆動型の低分子探索が可能になりました。
AWSのインフラストラクチャ、拡張性の高い計算能力、そしてAmazon Bedrockを通じたBioFMsへのアクセスを活用することで、AbbVieは膨大な生物学的データを、かつてないスピードで実用的な知見へと変換できるようになりました。
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AIエージェント:研究者の役割の新たな形
バイオテックスタートアップのOwkinとBioptimusは、AIを活用した科学研究の新しい協働の形を提示し、生物学の理解をさらに深める取り組みを紹介しました。
OwkinのR&D最高責任者のJean-Philippe Vert氏と製品部門VPのThea Backlar氏、は、生物学者が生物学者のために開発したAI搭載コパイロット「K Navigator」を発表しました。このシステムは高度なエージェントシステムを基盤とし、腫瘍学分野で世界最大の空間オミクスデータセットであるMOSAIC Windowをはじめとする膨大なデータに接続しています。研究者は自然言語での指示により、多様なデータの探索、分析、視覚化が可能になり、科学的直感を増強し、作業の効率を高め、複雑な問いを実用的な知見へと変換できます。これにより、創薬ターゲットの特定、患者グループの特性評価、既存薬の新たな用途発見などが促進されます。
研究者は現在、3,500万件を超える科学論文へのアクセス、臨床試験の設計、患者データの調査を、単一のインターフェースから行うことができます。しかし、K Navigatorは単なる効率化ツール以上の存在です。これは、人間とAIが協力して新たな知見を生み出し、これまで到達できなかった科学的領域を探索するための新しいパラダイムを示しています。すでにアカデミアで利用可能なこのプラットフォームについて、Owkinは生物学的人工超知能(BASI)への足がかりとして位置づけています。これは、AIが人間の発見能力を大規模に拡張する協働システムとなることを目指しています。
一方、フランスのスタートアップBioptimusは、生物学特有の多面的な性質に着目したアプローチを展開しています。シンポジウムでは、共同創業者兼主任研究員のZelda Mariet氏が、数百万枚の病理画像スライドで学習させた基盤モデル「H-optimus-1」について発表しました。このモデルは、がんの種類の分類、腫瘍の段階評価、バイオマーカーの検出、デジタルスライドの品質管理など、主要な診断・研究領域で最高水準の性能を実現しています。生物学における異なるスケール間の関係性を学習することで、より深い洞察を可能にしているのです。
現在、AWS Marketplaceで利用可能となったこのモデルにより、ヘルスケア・ライフサイエンス分野のお客様は、Bioptimusの最先端病理モデルを自社の安全なクラウド環境に素早く導入し、AWSベースのワークフローにシームレスに統合することができます。これにより、病理学や生物医学研究における知見の獲得が迅速化され、業務効率が大幅に向上します。
しかし、これはほんの始まりに過ぎません。Bioptimusは現在、ゲノミクス、分子データ、イメージング、臨床記録を統合した次世代マルチモーダルモデル「M-optimus」の開発を進めています。このモデルは、生命現象のあらゆる複雑さを学習対象とするよう設計されています。彼らの野心的な目標は、生物学における世界初の汎用AIファンデーションモデルの創出です。
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未来のラボの構築
Deloitteのヘルスケアおよびライフサイエンス部門のマネージングディレクターのRaveen Sharma氏は、「未来のラボ」についての斬新なビジョンを提示しました。それは、計算科学と実験科学が完璧に調和したデジタル統合型のAI駆動エコシステムです。このシステムでは、ドライラボとウェットラボがリアルタイムデータと自動化技術によって緊密に連携し、継続的かつインテリジェントなループを形成することで、科学的発見のプロセスを加速させます。
このモデルにおいて、ドライラボはAIモデルの訓練、調整、改良を担当し、計算機上で実験をシミュレートします。一方、ウェットラボは実際の実験を通じて仮説を検証し、高品質な実験データをシステムにフィードバックします。このデータは FAIR 原則(Findable:見つけやすい、Accessible:アクセスしやすい、Interoperable:相互運用可能、Reusable:再利用可能)に基づいて管理されることで、ループ全体の自己改善が促進され、研究のスピードと科学的厳密性の両立が図られます。
DeloitteとAWSは、このビジョンを実現するため、データの取り込み、統合、ガバナンスを自動化するクラウドネイティブなモジュール型ソリューションを開発しました。これにより、従来は断片化していた研究室のデータを FAIR な資産へと転換することが可能になります。DeloitteのLab of the Futureアクセラレータは、物理的な研究機器とデジタルインフラの間のギャップを埋め、AWS DataSync、AWS IoT Greengrass、Amazon S3、Amazon DataZoneなど、実績あるAWSサービスを活用しています。そして、これらすべてをAWS Control Towerで一元管理する仕組みを構築しています。
この新しいアプローチがもたらす影響は大きく、科学者たちはデータ管理に費やす時間を大幅に削減し、本質的な研究活動により多くの時間を充てることができるようになります。結果として、より質の高い治療候補の開発が加速され、革新的な治療法をより迅速に患者のもとへ届けることが可能となるのです。
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データの壁を打ち破る:連合学習による安全な協力体制
科学の進歩は協力があってこそ最も加速します。この原則は、特に創薬の分野で顕著です。
現代の創薬におけるAI活用の最大の課題の一つは、効果的なモデルの学習に不可欠な高品質なタンパク質とリガンド構造データへのアクセスです。確かに公共データベースは存在しますが、困難な創薬ターゲットに対する薬剤設計に必要な、構造的な多様性や分子間相互作用に関する深い知見が不足しています。製薬企業は、これらの相互作用を捉えるための独自のデータセット構築に多額の投資を行ってきましたが、データの機密性が企業間の協力を妨げ、結果として個々の進歩を遅らせる要因となってきました。
連合学習は、こうした壁を打ち破りつつあります。活発な議論が交わされたパネルディスカッションでは、Johnson & JohnsonのIn Silico Discovery部門VP Justin Scheer氏、AbbVieの計算創薬部門長 John Karanicolas氏、そしてApherisの共同創業者兼CEO Robin Röhm氏が、AI Structural Biology(AISB)コンソーシアムの取り組みを紹介しました。このコンソーシアムは、連合学習を活用することで、各社の機密データを公開することなく、分散したデータセット全体でAIモデルを協調的に学習させることに成功しています。この手法により、知的財産を保護しながら、薬剤の特異性向上や分子間相互作用の最適化、より効果的な治療法の開発加速に向けた知見の共有が可能となっています。
AIモデルの構造予測精度がX線結晶構造解析と同等のレベルに達しつつある今、連合学習は安全で協調的な創薬の新時代を切り開いています。これにより、業界全体の知見を結集し、精密医療における画期的な進展を加速することが可能になってきているのです。
発見の新時代
わずか10年前、AIが私たちの移動手段、買い物、音楽鑑賞、ニュース消費の方法を根本から変えることになるとは、ほとんど誰も想像していませんでした。
そして今、同様の変革が創薬の現場で起きています。AIはもはや実証実験の段階を超え、研究開発の全工程において実質的な進歩をもたらしています。科学者たちは、AIの支援を受けながら疾病の生物学的メカニズムを解明し、より効果的な治療法をこれまでにないスピードで設計できるようになっています。これにより、長年にわたって治療法の確立が困難とされてきた疾患に対しても、新たな希望がもたらされています。
2025年のAWSライフサイエンスシンポジウムで明らかになったのは、AIがもはや研究の補助的なツールではないということです。基盤モデル、マルチモーダルデータ、AIエージェント、クラウドネイティブインフラストラクチャーを通じて、研究そのものを根本から変革しているのです。創薬の未来は遠い将来の話ではありません。その変革は、まさに今ここで進行しているのです。
AWSは、お客様がより遠くへ、より速く進むことをサポートできることを誇りに思っています。世界の大手製薬会社トップ10社のうち9社が、生成AIと機械学習戦略の実現にAWSを選択しているという事実は、私たちへの信頼の表れだと考えています。
次のステップを加速するための方法について、詳しくはAWSの担当者までお問い合わせください。
参考資料:
- 第7回AWS Life Sciences Symposium:基調講演のハイライト | 基調講演のダイジェスト動画を視聴する
- ライフサイエンスのイノベーションをAWSのAIエージェントで加速
- 臨床開発セッションのハイライト – 第7回 AWS ライフサイエンス シンポジウム
- 製造セッションのハイライト – 第7回 AWS ライフサイエンス シンポジウム
- コマーシャルセッションのハイライト – 第7回 AWS ライフサイエンス シンポジウム